お地蔵さんの日 平成31年・令和元年


第1回「お地蔵さんの日」 平成31年1月24日(木)
第1回目の「お地蔵さんの日」は都合により中止になりました。



第2回「お地蔵さんの日」 平成31年2月24日(日)
東渓院住職 長澤竜也(ながさわりゅうや)宗師を導師様をお迎えしました。
お釈迦様は、80歳でお亡くなりになりました。2月15日満月の日に故郷であるインドに帰る途中に食あたりで亡くなったそうです。亡くなった日を涅槃会といいます。
お釈迦様は、特別な人でなく同じ人間です。
「私の80年の人生の中で尊い食事は2回ある。悟りを開いた時に食べた御飯と亡くなった原因を作った最後の御飯である」と話されました。なぜ死の原因を作った食事が尊い食事なのでしょう。それは、死因である食事を作ったあの人を、責めてはいけないよというメッセージです。周囲の人に親切に優しく接した方でした。

私たちは、何時が最後の食事になるかはわかりません。ですから、1回1回の食事はおろそかにできません。これが最後と思ったら御飯一粒汁一口を大切に食べるでしょう。大事な御飯ですから。今日から、三食出てくるのは当たり前と考えず、一口一口大切に丁寧に向き合いましょう。自分の体の一部になるのですから、大切に食べましょう。

2800年前から、皆さんを導いてくださった人がお釈迦様です。師であるお釈迦様が残した言葉や行動を聞いて、導いていただいている方向をみて、皆さんが少しでも良い方向になるように、少しずつ少しずつ進んでいきましょう。

▲ 長澤竜也宗師の法話

 




第3回「お地蔵さんの日」 平成31年3月24日(日)
太田市 瑞岩寺(ずいがんじ) 徒弟 岡田律雄(おかだりつゆう)宗師をお迎えしました。

本日3月24日は彼岸明けであります。
お彼岸には、お墓参りをするなど先祖供養をしていますが、もともとは、仏教では今私たちがいる煩悩や迷いに満ちた世界を「此岸(しがん)」といい、煩悩や悩みのない悟りの世界を「彼岸(ひがん)」といいます。お彼岸は、極楽浄土に想いを馳せ、より彼岸に近づけるよう修行をする期間といわれていました。のちに、彼岸は西、此岸は東にあるとされていることから、春分と秋分の日は太陽が真東から登って真西に沈むことから、彼岸(極楽浄土・あの世)と此岸(この世)が通じやすくなると考えられ、先祖供養をするようになったそうです。

先祖供養ということですが、一人の人間には必ず二人の親、父親と母親がいます。その父親と母親にも父親と母親がいて、「おじいさん・おばあさん」といわれる存在は四人います。その上の「ひいおじいさん・おばあさん」になると八人になります。こうして十代遡ると1024人のご先祖様がいて、このうちの誰か一人でもいなければ、今我々はここにこうして存在しないということになります。こうした多くのご先祖様のおかげで今があるわけですから、ご先祖様への感謝の気持ちを忘れずに生活していただければと思います。

また、当施設では「全員家族」をモットーしていますが、二十代遡るとご先祖様は100万人を超えますので、ここにいる皆さんはどこかで繋がっていると思います。ですから、全員が家族であると思って仲良く楽しく生活してください。

▲ 岡田律雄宗師の法話




第4回「お地蔵さんの日」 平成31年4月24日(水)
真岡市 蓮城院 副住職 荒木弘文宗師をお迎えしました。

こちらの書に「願」と書いてあります。
これ、実は相田みつをさんの作品を真似たものなんです。「ねがい」と書いて「がん」と読みます。この書の解説文には次のように書いてありました。
『願を持ちましょう。「願」と「欲望」とは根本的に違います。わずかなお賽銭を挙げて、それも年一回の初詣の時ぐらいで、「家内安全。商売繁昌。お金がいっぱいできますように。」なんてね。こういうのは個人的・私的な欲望です。それをわたしは否定しません。わたしも同じですから。しかし、そういう私中心の欲望とはまったく別に、

・核戦争など絶対に起こりませんように。
・世の中がどうか平和でありますように。
・山や海や河、そして土、水、空気、自然が、人間の作る公害で、これ以上汚れませんように。
と、心から念じたとき、それを「願」といいます。どんな小さな「願」でも心ひそかに持ちつづけていると、顔がよくなり、眼の色が深く澄んできます。ひとりひとり自分に合った「願」を持ちましょう。そして、「一隅を照らす」人間になりたいものです。
昭和六十年 秋彼岸中日 合掌 相田みつを』

この「願」という作品は、お参りをする際の心がけを伝えたかったのでしょうか。様々な解釈があるとは思いますが、私は仏教でいうところの「自利利他」を示したものだと思いました。「自利」は自分の行いにより得られた良縁を自分のものとして受け取ること、「利他」はその良縁を他人の救済に尽くすこと、つまり他人を幸せにすることで、自分が幸せになるという意味があり、もっといえば施しは生きる力のもとということです。本当の幸せとは、自分だけが独り占めにするものではありません。相手と自分の間に生まれるものなのです。思いやりは、自分がまっすぐ生きる力の源になるとういうことなのです。

相田みつをさんの作品は、優しく心に響きます。そして、正しい生き方に導いてくれるような、そんな深い安らぎを感じます。
それは、おそらく作品を観た人に幸せになって欲しいという、相田みつをさんの深い思いやりが込められているのでしょう。多くの作品を通じて「自利利他」を行っているのだと思います。

私も僧侶として、優しく心に響く、そんな生き方を示し、多くの人々を導けるような人間となれるよう精進せねばと、カレンダーをめくる度に思いしらされます。皆さんも、ひとりひとり自分に合った「願」を持ちましょう。そして、自分の出来る精一杯の思いやりを表してください。そうすれば自ずと本当の幸せの中に生きる人生となることでしょう。

▲ 荒木弘文宗師の法話




第5回「お地蔵さんの日」 令和元年5月24日(金)
栃木市 長福寺 副住職 皆川泰之宗師をお迎えしました。

今は田植えの時期です。たくさんの農家の方が田植えをしている田んぼがあります。田植えに始まり稲がすくすくと育ち、秋には実りの秋ということでおいしいお米がとれるということで期待する時期です。

この時期になると一つ思い出す話があります。
少し前のことですが、あるテレビ番組のなかで「うちは給食費を払っているので、給食の時にうちの子にいただきますを言わせなくて結構です。」という話をした親御さんがいたのです。
私はこの話にすごく衝撃を受けました。
私は、生まれも育ちもお寺でしたので「いただきます」と言うのは当たり前だったからです。
この「いただきます」という言葉はなぜ言うのでしょうか。

田植えの話をしましたが、お米というのはどんな風に育ってどんな人々の手を経て自分の前に到着するのかを考えて頂きたいと思います。田植えをして収穫するまでに、台風が来るかもしれない、雨が降りすぎてしまうかもしれない、逆に雨が全く降らないかもしれない、虫に食べられてしまうかもしれない、そういった困難を乗り越えて秋に収穫を向かえます。しかし、収穫しただけではみなさんの前には届きません。精米をして、お米を研いで、炊飯をして、そして盛り付けてくれて、どなたかがやってくれて自分に前に到着します。そのご飯を目の前にして「いただきます」と手を合わせるのは、ごく自然なことであり感謝の気持ちがあれば自然と出てくるものです。

私が修行僧のときに覚えた言葉があります。それは『五観の偈』というものです。これを食事の前に必ず唱えていました。
先程の給食を食べる前に「いただきます」を言わせなくていいという話ですが、感謝の心を持って、お米が、野菜が、魚が、肉が、どのような経緯を辿って自分の目の前にやって来たのかということを考えながら手を合わせれば、給食費を払っているから「いただきます」を言わなくていいというのは、私は間違っていると思います。

どんな食事であっても多かれ少なかれ食事には変わりないことです。命が犠牲になっているわけです。牛肉を食べれば牛が犠牲になる。鶏肉を食べれば鶏が犠牲になる。野菜に関しても、野菜はもっともっと大きくなろうとしているかもしれない、それを切ってしまう、これはやはりその命を切ってしまって自分でいただくということです。これを決して忘れないようにしていただく、これが食事にとってとても大切なことではないかと思います。

「いただきます」という言葉は、自分の命を永らえるためにあなたの命を「いただきます」ということです。
このことを是非忘れず、一つ一つの食事が自分の命になるんだと、感謝をして「いただきます」と手を合わせてもらえればと思います。

『五観の偈』
【原文】
一には、功の多少を計り彼の来処を量る。
(ひとつには、こうのたしょうをはかり かのらいしょうを はかる)
二には、己が徳行の全欠を忖って供に応ず。
(ふたつには、おのれがとくぎょうの ぜんけっとはかって くにおうず)
三には、心を防ぎ過を離るることは貪等を宗とす。
(みつには、しんをふせぎ とがをはなるることは とんとうをしゅうとす)
四には、正に良薬を事とするは形枯を療ぜんが為なり。
(よつには、まさにりょうやくをこととするは ぎょうこを りょうぜんがためなり)
五には、成道の為の故に今此の食を受く。
(いつつには、じょうどうのためのゆえに いまこのじきをうく)

【現代語訳】
1.この食事がどのようにして出来たかを考え、自然の恵みと多くの人々の働きを思い感謝致します。
2.自分の行いが、尊い生命と労力で出来た食を頂くに価するものであるか反省し、供養を受けます。
3.心を清浄に保ち、誤まった行いを避けるために、三毒である貪(貪り)瞋(いかり)痴(おろか)の三つの過ちを持たないことを誓います。
4.まさに、食は良き薬であり、身体を養い、健康を得るために頂くのです。
5.仏の道を実践するために、この食事を有り難く頂戴致します。

▲ 皆川泰之宗師




第6回「お地蔵さんの日」 令和元年6月24日(月)
新潟県柏崎市 虚空蔵寺(こくうぞうじ)住職 竹田勝英(たけだしょうえい)宗師をお迎えしました。
入所者・職員参加で、お地蔵様の日を行いました。

前回、「日常の五心」についてのお話いただきましたが、今回は『無財の七施(むざいのしちせ)』について、お話されました。
・眼施(がんぜ) 慈しみの眼(まなこ)、優しい目つきで全てに接すること。
・和顔施(わがんせ) いつも和やかに、穏やかな顔つきをもって人に対すること。
・言辞施(ごんじせ) 思いやりのこもった態度と言葉を使うこと。
・身施(しんせ) 模範的な行動を、身をもって実践すること。
・心施(しんせ) 自分以外の人の為に心を配り、心底から共に喜び、悲しむこと。
・床座施(しょうざせ) わかり易く言えば、席を譲ること。
・房舎施(ぼうしゃせ) 思いやりの心を持って、すべての行動をすること。

自分にも他の人にも優しい言葉をかけてあげて下さい。
困っている人がいたら、奉仕の心で手伝ってあげて下さい。
気配り・思いやり・心配り。相手の気持ちを考えて下さい。
皆さんの心が少しでも平らかになって、日々楽しくお暮しいただいて、また機会があったら、お会いしたいと思います。

▼竹田勝英宗師の法話




第7回「お地蔵さんの日」 令和元年7月24日(水)
館林市 法輪寺住職 田中英文宗師をお迎えしました。

私は群馬県館林市にございます法輪寺より参りました田中英文でございます。
私は今日初めてお世話になるわけですけど、こちらの皆さんは毎月お地蔵さまにお経をあげてお話を聞かれているとの事ですので、おそらくはですね、私なんかよりもよっぽど仏教に関しては詳しいと思いますので、いつも仏教ばかりですから今日はせっかくですので他の宗教のお話をさせていただきます。

まずはキリスト教ですが、キリスト教はご存じでございますかね、キリスト教には様々な教えがあるわけですけども、その中で最も大切な教え「黄金律」と呼ばれる教えがありますが、それは「己の欲するところ隣人に施しなさい」というものがキリスト教の中でも大切な教えになっております。

同じような教えは中国の道教という宗教にもあります。
こちらには「己の欲せざるところ、隣人に施すなかれ」とあります。

これは自分のして欲しくない事は、他の人にもしないでくださいね、という教えです。
して欲しいことをしてあげるのがキリスト教、して欲しくないことはしないというのが道教でございます。
では改めて仏教にはどんな教えがあるのかと言いますと。
聴いたこともあるでしょうか「天上天下唯我独尊」と言う言葉がございます。
どちらかと言うと暴走族の特攻服なんかに書いてあることで有名ですけども、これはもともと仏教の言葉でございます。
天上天下、天の上にも下にも、この世界どこにおいても、唯我独尊、ただ自分だけが独り尊いのだ、という事でございです。

先のキリスト教がして欲しいことをしてあげましょう、道教がして欲しくないことはしないようにしましょうという、それに対して仏教は自分が一番尊いのだという教えです、だいぶ尖った教えだと思いますが
大切なのは唯我独尊の「我」が誰の事を指しているかです。仏教で一番尊い存在というと、お釈迦様ですけども、確かに尊い存在ですけども、これは半分正解です。

この「我」とは、お釈迦様にとってはお釈迦様自身であり、私にとっては私自身であり、皆様にとってはそれぞれ自分自身が一番尊いのだという事でございます。
誰においても自分の人生の中で一番尊いのは自分自身なのだと言うことで自分には優しくなりますし、甘くもなります。
それはそのようなことをするなと言う事では無くて、ただ自分に対して甘くすると言うことは、他に人についつい厳しくなりがちなのです。
自分に対して甘くなるなと言う事では無くて、自分に対して甘くなるのだったら、他の人にも同じように接しましょうと言うのが、天上天下唯我独尊という教えでございます。

先ほど挙げたキリスト教は他の人にやさしくしましょう。道教はしてほしくないとこはしないでおきましょう、で仏教も自分に対して優しくするように、他の人にやさしくしましょう、と言うことで、やはりどの宗教もみんな優しく助け合っていきましょうということが基本であります。

どれも同じですけども、それに至る道が違うと言う事だけです。
登山の際に目指すべき山頂は同じであっても、険しい道を一直線に上るのか、遠回りしてでも安全な道に行くのか、はたまたロープウェイで一気に登るのか、道は違ってもその目的は一緒だということ。

そして私はそのいろいろな道の中でも、仏道という道を歩むことを決意して今この場に立っております。これからも皆様と共に精進してまいりたいと思います。

▲ 田中英文宗師の法話




第8回「お地蔵さんの日」 令和元年8月24日(土)
群馬県大泉町 正善院 副住職 白石泰三宗師をお迎えしました。

この救護施設フルーツガーデンには、お地蔵様があり、今日ここに居る皆さまは毎日、また最低でも月に1回はお地蔵様をお参りしている事かと思います。
私のお寺には、延命観世音菩薩(通称ぽっくり観音)という観音様がお寺にあります。
ですから、毎日のお経の中で、延命十句観音経というお経をお読みしています。
とても短いお経で、歴史としては、今から約1000年前に、中国で皆さまに分かりやすく、観音様に見守って頂けますようにと、作られたお経であると伝えられています。

せっかくですので読んでみたいと思います。
(十句観音経)と云うお経です。
ありがいたいですねー
本当は皆さまと一緒に、繰り返し読んで頂きたい所でございますが、今日は、お経の意味を説明させて頂いて、後で興味のある方は各自でお読み頂ければと思います。

このお経は十句観音経と言う事から、10個の言葉をお読みして1つのお経となっております。
説明させて頂きます。

最初に  観世音(観世音菩薩さま)
2つ目  南無仏(私は仏様に感謝いたします)(帰依)
3つ目に 与仏有因(仏様に見守られております)
4つ目  与仏有縁(仏様とのご縁を大切にしています)
5つ目に 仏法僧縁(仏様とその教えとお坊さんのご縁を頂いて)
6つ目に 常楽我浄(観音様と一体になり自分の心が清らかになります)
7つ目  朝念観世音(朝な朝なに観世音を念じ)
8つ目  暮念観世音(夕な夕なに観世音を念じ)
9つ目に 念々従心起(念じ念じて自分の心を起こし)
10こ目 念々不離心(念じ念じて観音様に見守られております)
以上十句、非常にわかりやすいお経でございます。

このお経を繰り返しお読みする事によって、願いが叶ったり、
色々な事に効果がでたと言う お話が沢山あります。
「人生の可能性を延ばすと云う事から」十句観音経から
延命と云う言葉がついて延命十句観音経と言うお経になったと言われております。
本日お集まり頂いた皆さまには お地蔵様と観音様のお力をお借りいたしまして、益々元気で長生きして頂きたいと思います。

最後に延命十句観音経をお唱えして本日のお地蔵様の日とさせて頂きます。
それでは皆様お手を合わせて頂きまして合掌をお願いいたします。

▼ 白石泰三宗師の法話




第9回「お地蔵さんの日」 令和元年9月24日(火)
群馬県 薬師寺住職 堪山泰賢宗師をお迎えしました。

皆さんこんにちは。
私は群馬県薬師寺住職・堪山泰賢と申します。私たち曹洞宗のお坊さんがよく読むお経の一つに修証義というお経がございます。その中に「同事というは不違なり、自にも不違なり、他にも不違なり」という一説があります。
同事とは同じ事と書き。不違とはちがわないということですから「同じである」ということです。自分も他人も違いがない、区別できないとう意味です。

昔、お釈迦様ご在世の時という事ですから今からおよそ二千五百年前、インドのコーサラという国のパセーナディという王様がお城の高台でマッリカーという王妃と共にこんなお話をしました。

「王妃よ、君は自分自身より愛しい、他の何かを考えることができますか?」
大王様の問いに王妃は少し考えた後、「大王様、私には自分自身が最も愛しいものです。では王様にはご自身より愛しいものがおありですか?」と逆に質問しました。
王様は王妃の問いかけをしばらく考えましたが、どんなに考えてもこの世で一番大切なものは地位や名誉・財産ではなく、ともかく自分自身であるという考えに至りました。
でも二人とも意見が一致した所でどうもこの結論はおかしいように思えてなりません。
そこで二人は平家物語で有名な「祇園精舎」という修行道場にいらっしゃる、日頃から敬愛するお釈迦様を訪ねました。

一部始終を聞いたお釈迦様は、二人にその通りだよと深くうなずかれ、こう語られました。
「人の思いはどこにでも飛んでいくことができます。でもどこに飛んでいこうとも自分より愛しいものを見つけることはできません。それと同じように他の人々も自分自身はこよなく愛しいものです。ならば自分が愛しいことを知る人は、他の人々を害してはなりません。」

ここにおられる皆さん、前後左右にお座りの方も全て、自分を一番大事に思っています。であるならば自分他人の区別なく、誰にでも優しい気持ちで接することができますよう、心がけたいものです。

▼ 堪山泰賢宗師の法話




第10回「お地蔵さんの日」 令和元年10月24日(木)
栃木県栃木市 長福寺 副住職 皆川泰之宗師をお迎えしました。

つい先ごろ、台風19号により甚大な被害を受けてしまわれたという事についてお話させて頂きます。
台風19号が上陸し、この栃木県近くを通過していきました。佐野市でも秋山川が氾濫し甚大な被害を受け、小学校の体育館などで避難生活をされている方々もまだまだいらっしゃいます。
この台風により犠牲になられて方々には大変お悔やみを申し上げると共に、また、避難生活をされている皆様におかれましては、心よりお見舞いを申し上げる次第でございます。

さて、私のお寺はどうかと申しますと、無傷で済みました。ただ、すぐ隣の川が満水状態になりまして、おそらくあと1, 2時間雨が降り続いていたならば、どうなっていたかわからない状態でした。
鹿沼市にもうひとつ住職が兼務しているお寺がありまして、本堂や建物等は無傷で済みましたが、檀家さんが川の氾濫により床上浸水の被害にあってしまいました。車や家などが被害にあいましたけれども、不幸中の幸いとはこのことで、亡くなられた方はいらっしゃらなかったということで一安心しています。

床上浸水ですから、家財道具などが使い物にならなくなり、今後の生活が心配されます。ですが、被災された方々は前を見据えて、希望を持って生活をされておられます。私たちはこの台風19号により、大小の被害を受けるということになってしまいました。甚大な被害は確かに受けてしまいましたが、私たちは命があります。命を無くすということはありませんでした。これは不幸中の幸いであります。私たちは今こうしてここに居り、なんともこれはありがたいことではないでしょうか。

「ありがたい」を漢字で書くと、有ることが難しいと書いてありがたいと読みます。
今こうして命があるのは、実は非常に難しく稀なことであります。ご先祖様から代々命を受け継いで、この体、この命を長らえるのは難しいことです。今回の台風で残念ながら亡くなられてしまった方々がおりましたが、今こうして私たちは命を長らえることが出来ました。であるならば、生き残ることが出来た私たちは今後どのようにしていけばいいのだろうかという気持ちを強く持ち、ボランティア活動あるいは祈ることでも構いません。生き残ることが出来た私たちが精いっぱい出来ること、それは何だろうかと、皆様おひとりおひとりがお考え頂けたらと思います。

▲ 皆川泰之宗師の法話




第11回「お地蔵さんの日」 令和元年11月24日(日)
群馬県北群馬郡榛東村 宮昌寺副住職 酒井泰生宗師をお迎えしました。

第二次世界大戦のころ、榛名山麓には東京の赤羽の小学校から多くの子供たちが疎開してきました。中には空襲によってご両親が亡くなって帰る家がない人もいました。そういった方はお寺に暫くいて、遠い親戚の所に引き取られたという方もいました。

ある日、前橋警察署からお寺に電話があって、どうしても子供の頃疎開したお寺を探したいという方がいて、こちらのお寺ですかというものでした。また、車で覚えていたお寺の名前、村の名前を追って探しに来たという方もいました。

ある年の8月13日に不意にある老婦人から電話がありました。その年旦那さんが亡くなり、新盆でふと子供の頃過ごしたお寺を思い出し、名前を調べて連絡してきてくれました。

老婦人と私の父親はいろいろと昔話をしていました。当時、子供たちを飢えさせないために地元の人たち、町長さんや農協の組合長さんたちが、本当はいけないのに食べ物を分けていたそうです。そういうお話をしたらいたく感心して、昔お寺で食べたお赤飯の味が思い出されて、しばらくしたら、お湯で温めるお赤飯が沢山届きました。頂いてばかりでは悪いので、こちらからもブドウを送ると今度はティッシュが届いたりと、とにかくたくさんの品物が届きました。

私が老婦人と話をすると、「あなたにあげているんじゃないの、あなたのおじいちゃんおばあちゃんに恩を返しているの」と最後をしめられました。この方は、今は一人暮らしだそうですが、妹さんがいて、二人とも赤羽から疎開をしていました。姉妹は一心同体で、姉は雑貨が好きで妹の所へ送ってあげると妹は服を送ってくれるそうです。お互いの得意な分野で送り合っていて、そうすることで心を通わせ心を満たせる生活をしているということでした。我々も、そんなふうに周りの人と心を通わせ、心が満ちた生活を心掛けていきたいものです。

▼ 酒井泰生宗師




第12回「お地蔵さんの日」 令和元年12月24日(火)
◇東渓院住職 長澤竜也(ながさわりゅうや)宗師をお迎えしまいした。

改めまして、みなさんこんにちは。
背中で皆さんのお経を聴かせて頂きましたが、上手になり、覚えている方もいるようですね。
段々と慣れてきて声も出るようになったのだと思います。色んな方がご導師様を務めて頂きながらお経の先導をしていますが、皆様の声を背中で聴いていると励まされる思いがあると思います。

お昼ご飯の時に唱えている五観の偈の話をしようと思います。
五観の偈というものは古くは中国で作られ、それを道元禅師様が広めたものです。お食事の際に私たち修行僧が5つの事を心に巡らせてから食事を頂くという意味。もともとは「五観」で終わっていましたが「赴粥飯法」という本の中に五観を成すという言葉があり、それが由来です。本来、修行僧は坐禅堂という坐禅をするところで坐禅をしながら食事を頂きます。
その場所で「今日の自分はどうだったのだろうか」と思いを巡らせ、「もし今日自分が至らなくても明日、次の食事までには自分が少しでも至る様な人間になりますように」そのように想いを致して、巡らせて五観の偈、五観を働かせてから食事を頂きます。では、朝、晩は唱えなくてもいいのかと思いますが、朝、晩も同じように五観を巡らす、成してからお食事を頂きます。
1番から5番までありますが意味は読んでもらえれば分かると思います。
5番目に成道という言葉があります。昔、私は意味が分かりませんでした。道を誰が成すのか、私が、何のために。英語の訳では「ateil our way(私たちの道を成す)」。
「私、私たちがこの食事を頂くことでみんなが仏様になる」私が仏様になるのではなく、「この食事を摂る事でみんなが仏になる為にこの食事を頂きます」というのが本来の意味です。

食事の話をしましたが、坐禅堂で食事を摂るのはなぜかというと、そこから動けなくする為です。
普通はお腹が空いていればお替りをしに自らお釜のところへ行きますよね。でも坐禅堂では食事を待つことしか出来ない。量の加減は出来ますが自分で立っていく事はありません。

皆さんも給食なので修行僧と同じなのかもしれませんね。好きな物を選ぶことも、嫌いな物を避ける事も出来ませんね。出された物をそのままに頂く。それはどういうことなのかというと、自分の我儘を超えていくためなのです。修業とは自分の我儘を超える為にするのです。我儘の気持ちを修行の力で治める事がまず初めの修行だと思って下さい。その意味で、食事の時に「あれいらない、これいらない」の気持ちを半歩でも1歩でも少しでも3度の食事で修行して頂ければと思います。
始めに話しましたが昼は五観の偈として口で唱えます。朝、晩は五観を成して頂きます。五観の偈に書かれている事をしっかり覚えれば朝、晩も頭にしっかり浮かびます。それが五観を成すという事です。


▲ 長澤竜也宗師